教室のあゆみ
昭和3年(1928年)に関西医科大学が開校しましたが、開校当初には眼科学講座はありませんでした。
昭和7年(1932年)に附属病院が開設される際に眼科学講座が開講されて90年以上の歴史があります。
先導者の想いを受け継ぎ、知識、技術、人格のバランスがとれた、臨床において実践能力の高い眼科医の育成を目指し歩み続けています。
眼科学講座の歴代主任教授
(在任期間)

初代主任教授(昭和7年4月~昭和9年8月)
井街 謙
昭和3年に京都帝国大学卒業、昭和7年に京大講師から着任しました。当時20歳代、允文允武といわれる新進気鋭の青年学徒として、眼科学会で注目されていました。精力的に研究活動へ励み、徹頭徹尾「私は勉強せぬものは嫌いだ」と教室員への厳しい勉強指導もしていました。それは教室員への愛であり、信望も極めて厚かったようです。
昭和9年に倉敷中央病院眼科医長として転任、在任はわずか2年半でしたが、教室は活気に溢れていました。退任後は視神経疾患の研究(治療、病理組織的研究、実験的研究)に没頭、開頭術を眼科に初めて導入されました。

二代 主任教授(昭和9年9月~昭和41年1月)
瀬戸 文雄
京都大学薬理学助教授から京都大学眼科を経て、昭和9年に着任しました。戦前・戦中・戦後と激動の昭和の時代を30年余りの長きに亘って教室を守りました。学生教育に努力をかたむけ、眼科を志した卒業生を多数輩出しました。
この間、昭和3年に開学した大阪女子高等医学専門学校が、戦後の学制改革により大阪女子医科大学として新しくスタートし、昭和29年には男女共学制度へ転向し、名も関西医科大学に改まりました。附属病院も昭和34年には500床の病院に成長しました。

三代 主任教授(昭和41年4月~昭和50年4月)
塚原 勇
昭和20年京都帝国大学卒業、京都大学助教授を経て、昭和41年に関西医大教授に就任しました。教室の近代化に全力を注入し、診療・研究室を整備しました。「網膜剥離の手術療法」を教室のメインテーマにして、多数の網膜剥離患者の手術を手掛けると共に、当時普及しつつあった蛍光眼底造影法、光凝固、顕微鏡手術をいち早く取り入れ、眼底疾患の診療、手術成績の向上に貢献しました。これらの成果の一つとして、昭和43年 日本中部眼科学会で「中心性網膜炎の病理と臨床」について特別講演を行いました。病院の眼科の患者は飛躍的に増加し、昭和45年には年間新患外来患者6000名、入院ベッド28床は常時満床でした。
昭和47年には、教授を中心に関西医科大学眼科同窓会が結成されました。研究室には毎年多額の文部省科学研究費の補助を得て、ミクロトーム、顕微鏡写真撮影装置など諸器械が次々と備えられ、主として電子顕微鏡による研究を続け、その成果を学会に続々と発表しました。また小児未熟児センターとの提携により未熟児網膜症の研究が行われました。教室の新生と発展に尽くした塚原教授は、昭和50年に京都大学眼科教授、日本眼科学会常務理事に就任し、昭和52年国際眼科学会で「網膜色素上皮の臨床」について特別講演を行いました。昭和60年には関西医科大学学長として関西医科大学に戻られ、昭和63年に関西医科大学理事長に着任し本学の発展に寄与されました。

四代 主任教授(昭和51年2月~平成11年3月)
宇山 昌延
昭和31年京都大学医学部医学科卒業、京都大学助教授を経て、昭和51年に関西医大教授に就任しました。就任時の挨拶で「教室の仕事によって大阪の東北の空が真理探究の焔で明るく輝いているようになりたい」と希望を述べられ、「一座建立」の精神で教室員と共に教室の発展に尽力しました。 塚原教授時代同様、教室のお家芸「網膜剥離の手術療法」を主軸とし、国内でもトップクラスの手術成績(年間300症例、治癒率98%)を修め、その他に老人性円板状黄斑変性や中心性網膜炎などの黄斑部疾患や網膜血管病など眼底疾患を中心に診断と治療の研究を行いました。
研究室では脈絡膜循環についての研究が行われ、その成果を昭和55年の日本眼科学会総会で宿題報告として「脈絡膜循環の諸問題、脈絡膜循環障害の病態について」の講演を行いました。昭和62年の日本臨床眼科学会では「網膜色素上皮の臨床」、平成3年日本眼科学会では「脈絡膜新生血管、基礎と臨床」の特別講演を行い、平成4年にはマイケルソン賞を受賞し、国際眼内循環、血管新生国際シンポジウム(マイケルソンシンポジウム)で「脈絡膜新生血管と網膜色素上皮の研究」を講演しました。手術診療では、硝子体手術や超音波診断が新しくとり入れられ、昭和52年に眼科入院ベッド45床(病院850床)が、昭和62年に57床、平成5年に65床と増え、平成7年の1日平均外来患者数は276人となりました。平成11年に退官する際に、若い医師や学生にむけて「好奇心を持て」を最後の言葉を述べました。「常に好奇心をもって患者さんの病気はどうなっているか、とよく考え、分からないところは本を読んで勉強し、更にわからないところは実験をして解明に努める。まず、何事も知的好奇心をもつことで、物事を知りたいと思う心から医学は始まる」と話しました。

五代 主任教授(平成11年8月~平成20年3月)
松村 美代
昭和49年京都大学医学部医学科卒業、当時眼科顕微鏡手術の教育について国内随一である永田誠博士のもとで手術修練をつみ、京都大学の講師、助教授として後進の指導、ならびに研究に当たると共に、兵庫県尼崎病院眼科医長、倉敷中央病院眼科部長、永田眼科副院長として豊富な臨床経験を積み、平成11年に関西医大教授に就任しました。良い医療を提供できる医師を社会に送りだすことをすべての基盤としました。眼科は臨床家であり、それらを身に着けるにはそばにモデルがいることが必要と考えられ、トップが現場にいてモデルになっているべきという信念のもと、自らがモデルとなっていました。
平成18年に現在の附属枚方病院(現 附属病院)が開院し、Try&errorの精神で新しいシステムを教室員とともに作り上げました。教室に残された大きい功績の一つに白内障手術の教育システム「自動車教習所方式」を作成し、誰もが一定レベル以上の白内障手術を効率よく習得できるようになりました。「先輩に教えてもらったことは、後輩の先生におしみなく伝え教えていかないといけない」と、外来・手術教育を自らが熱心に指導しました。主な業績は、ライフワークたる緑内障、網膜・硝子体の分野で、最後にはその両者を合わせた、難治性の糖尿病網膜症に伴った血管新生緑内障の治療があります。

六代 主任教授(平成20年7月~ 令和6年3月)
髙橋 寛二
昭和59年に関西医科大学を卒業し、当時本学の宇山教授の講義や姿勢に感銘をうけ入局しました。2年間の米国留学以外は、滝井、香里、枚方の3病院で大学一筋に臨床の現場に立ち、平成20年に当教室初の本学出身の教授に就任しました。教室の運営テーマとして「勉強と実践」を掲げていました。何事にも広く見聞を深め貪欲に学ぶこと、そして自分が学んだ知識のすべてを臨床において確実に実践し、悩める患者さんのために全力を尽くして還元すること、これがすべての医療の基本とされました。「教えあい高めあう」教室の伝統を引き継ぎ、職位や年齢に関係なく活発に意見交換ができる風通しの良い教室運営にもご尽力されました。 臨床、研究面では、網膜剥離を主とする眼底疾患のレーザー治療、 外科的治療、加齢黄斑変性を主とする眼底疾患に新しく開発された機器(光干渉断層計)を用いて病態を解明し、多くの臨床成果をもとに日本眼科学会ワーキンググループのコアメンバーとして『加齢黄斑変性の診断基準』や『加齢黄斑変性の治療指針』を作成し、光線力学的療法、抗VEGF薬などの新しい治療の開発にも力を尽くしました。
2018年日本眼科学会総会 評議員指名講演では、「脈絡膜新生血管の生体イメージングと病理相関」ついて講演し、専門の病理組織学的知識をもとに脈絡膜新生血管の細隙灯顕微鏡所見、FA、IA、OCTそしてOCTAにおいての病理相関を明らかにし、Pachychoroid spectrum 疾患における脈絡膜構造とその発症機序の解明へとつなげました。教室の伝統でもある脈絡膜循環障害・脈絡膜新生血管に対する研究の集大成ともいえます。教育面では医師国家試験や眼科専門医試験の問題作成にも多く携わり、日本眼科学会専門医試験委員会委員長を2度務めました。

七代 主任教授(令和6年5月~)
今井 尚徳
令和6年5月、神戸大学医学部附属病院眼科講師を務めていた今井尚徳が、第七代関西医科大学眼科学教室教授に就任しました。専門は網膜硝子体手術および小児網膜硝子体手術です。現在、当教室には約20名の教室員が在籍し、診療・教育・研究に携わっています。外来には一日平均150名以上の患者が来院し、年間の手術件数は2500件を超えます。手術の約20%は硝子体手術を中心に、緑内障手術や角膜移植など、高度な専門技術を要する治療が占めています。本学が培ってきた網膜硝子体疾患の診療と研究の伝統を受け継ぎながら、低侵襲硝子体手術や3D手術システムなど、最新の医療技術を積極的に導入しています。また、難治性疾患に対する新たな手術手技の開発や病態の解明にも力を注ぎ、次世代の眼科医療の発展に貢献していきます。